プロフィール

 

家族とは緊張感のあるところ

私が生まれたときから、父はアルコール依存で仕事には行けず、母が昼夜働いていました。
父は悪者、母は悪者をやっつけるヒーローだと思っていました。
 家の中では、いつ夫婦喧嘩が始まるのか、緊張感の中、空気を読んで過ごしていました。
外では活発に遊ぶ元気な子供でした。

つかの間の平和

 小1の時、母は離婚し祖母の家に引っ越しました。
喧嘩がなくなり平和が訪れました。
常に母の手がかからないように空気を読んでいたので、親がいなくても手のかからない良い子として可愛がられました。

緊張感が戻ってくる

 小2の時母は再婚しました。最初は家に来る優しい男の人くらいに思っていたので、
緊張しながらも良い子として接していました。
 暫くして一緒に住むようになりました。気持ちは落ち着かないのですが、親の顔色を見て手がからないように生活していました。

感情を抑えて過ごしてきた小学生時代

 継父が優しかったのは最初だけでした。
喧嘩は以前より増して修羅場化し、決まって夕飯の時。
散乱した部屋の後片付けの時。
”お父さん”と呼ぶように強制された時。
どんな時も、親の手がかからないように、行動していました。
 本当の気持ちは、嫌だ、助けて、怖い、悲しい。でも言えません。
夜布団に入った時だけが安心して泣ける場所でした。

羞恥心と疎外感

 小学校高学年になると、地域のバレーボールクラブに入り夢中になれました。
しかし、友達との交流が増えると、自分の家との違いが気になってきました。両親の笑顔、楽しい会話、優しい言葉、穏やかな空気感。こんな家族があるんだ!と衝撃でした。私は、自分の家が
恥ずかしいと思ったのでした。それからは、家に友達を寄せ付けないようにするのに必死でした。
楽しいバレーボールクラブでは、疎外感を感じるようになりました。

無表情・無気力・無関心・うつ症状な中学時代

 中2になる前に、苗字を変えたいと母から相談されました。
いつもは母の手がかからないようにしてきたけど、この時初めて”嫌だ”が言えました。       でも無駄でした。母だけは、私の見方だと思っていたのが裏切られたような思いでした。
問題は一人で抱え込むようになっていきました。
 それから、ますます家では話さなくなり、「おはよう」の挨拶もしないことに
継父が腹を立て、暴言、暴力を受けるようになりました。
この頃から運動チックの症状が出始めました。周囲や親からも指摘されるのですが、やめることが出来ず、笑いものにされているようでした。
 感情や表情を表に出さなく、いつも冷めていて人を近づけないようになりました。

社交不安症を隠して過ごす高校時代

 授業で人前で話す場面があり、緊張で体が震え頭が真っ白になりパニック状態に。
その後も、注目を受けると強い不安や恐怖を感じることが分かりましたが、誰にも相談できず
隠していました。

社会人になっても毒親は止まらない

20歳の時 共依存に気づき家を出る

22歳 毒親が結婚の壁になる

 主人の両親からは、私の家族構成のことで猛反対されました。
その後、祝福はされませんでしたが
私と、私の家族は別と考えていたので、問題だとは思いませんでした。

悲しくても心配されたくない

 翌年妊娠するも、6か月で胎児の異常を宣告され検査の日々。死産でした。
こんな時も感情を押し殺し、平静を保つことを頑張り続けたのでした。
 母からは、「どーせうちは、幸せにはなられへん。」と言われたことに、安心感を覚え、
 主人の両親からは、実母以上に大切に扱われる経験をしたのに対し、居心地の悪さを感じました。


26歳 子育てでイライラが爆発

 翌々年長男を出産。新しい家族のスタートという気持ちで希望に満ち溢れていました。
しかし、長男に対しては、泣いて抱っこをせがむ姿、後追いする姿にイライラし
感情が暴れ出し止められなくなるのです。
 唯一相談出来るはずの主人は、会社で吐血し入院。相談することが出来ませんでした。

28歳 臨床心理士のカウンセリングを受けるが

 主人に相談しても、分かってもらえなく、イライラは増すばかり。
 自分の悩みは誰にも理解してもらえないと感じていたので、専門家に話を聴いて貰えることで、とても救いになりました。
 その時は心が晴れやかになり、悩みが解消されたように思いました。
しかし、すぐに元に戻ってしまうのです。
こんなに頑張っているのに、私は幸せになれない。
     


毒親から離れたい

 31歳の時、主人の転勤で引っ越すことに。毒親から離れる良い機会だと前向きに考えていました。自分の苦しい過去も、全部清算出来るような気がしていました。
誰も知らない土地で3歳と7歳の子供を育てるのに不安もありましたが、新しいことに夢中になっている間は、嫌な感情に振り回されることもなく平和に過ごせました。

 しかし、通常の生活に戻ると、長男の行動にイライラし、感情が暴れだすのでした。
 主人は、そんな私を非難するわけでもなく、責められている子供をかばうわけでもなく、
私にとって、いてもいなくても良い存在におもえるのでした。
 

人間関係ではイライラをぶつけられる側に

 職場や、ママ友の付き合いは、親密関係を作れず、突然イライラをぶつけらることも
あり、パニック症になり寝込むことも。

そんな時は、長男もお手伝いするよ。と優しく声をかけてくれるのです。
主人も感情的にはならず、優しい人なんです。
ただ、私が<優しさは価値がない>とはねのけていただけなんです。
それに気づくまで随分時間がかかりました。

娘の保育園時代に起った出来事で、発達に障害のある子と真剣に向き合って生きている親子を
疎外視する園長先生を許せないと強い反発心が起こる

長男も小4でチック症が現る。

何も問題がないと思っていた中2の娘が突発性脊椎側彎症で手術
 娘の症状は、気づいたときにはもう手術をせざるを得ないレベルと言われ、3か月以内に決めてほしいといわれる。何故もっと早く気づいてあげれなかったのかと、罪悪感でいっぱいになる。
 

相談してもいつも冷静でいる主人がで頼りなく見え家庭内別居の日々
 何度も何度も心の中では離婚をすると叫び、頭の中は離婚してはいけないと支配する

やっぱり、<私は幸せになれない>と思った時、ハッとしました。
母が同じことを言っていたと。私と同じ苦しみを、子供たちに味合わせているようだと。
負の世代間連鎖になっていることにきづきました。

NLPを学んで気づいたこと

それから、夢中で心理学について、調べるようになりました。

自分がアダルトチルドレンであること
共依存から抜け出せていないこと
自分の不幸な人生を全部毒親のせいにしていること
お父さんがアルコール依存から抜け出せなかったのは
母がお酒を差し出していたという事実 

など
どれも衝撃的な事実でした。
そして、両親の生まれ育った環境や生い立ちも少しずつ理解できるようになっていきました。

いろんな悩みが解消するも
自分にOKが出せずモヤモヤ

50歳、地元に帰り、やりたかったことにチャレンジ

 心残りになっていた保育の仕事にチャレンジしました。
自分には、子育てが出来ないと思っていたのですが、保育園で子供たちと接することが、こんなに充実感があり、楽しく、子供がかわいいと心から思えたのです。
それは、心理学を学んで得た自分との向き合い方が、
子供との向き合い方としてもいかされたからだと思います。

ビリーフチェンジマスターコースを受講する

・小さな時から悩みが多い人生であった人は、悩みを取り除くことに支配されてしまう
・病気や症状は、無理のある生き方は、そろそろ変えた方がいいですよというメッセージと気づく
・悩みがなくなり楽になったとしても、決して幸せとは言えない
・その悩みや病気を経験したことで辿り着く幸せがあること

これらは、他の心理学では教えてもらえないことでした。

アダルトチルドレンの問題は、共依存の問題、愛着の問題、そこから派生するさまざまな
人間関係の問題。と、成人してからの人間付き合いで気付くことが殆どです。

 生まれてから今日まで、感情に振り回され、心が落ち着かない状態でしたが、今やっと
心の平和が訪れています。50年以上かかりました。

しかし、今では、問題解決の方法も分かってきています。
自分自身が、
「自分は人と違って、何か生き苦しい感じがする。」
「アダルトチルドレンを終えたい。変わりたい。」
と、少しでも、感じたとき、変わるチャンスです。
 

 その方法を、今、生きずらい思いをされている方々にお伝えし、一緒に、
幸せな人生に変えていくお手伝いができればと思っています。